【昭和と令和】情報が多すぎてきつい…SESの働き方の移り変わりを振り返る

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現代社会は、かつてないほど情報にあふれています。Slack、Zoom、メール、仕様書、ドキュメント、GitHub、X(旧Twitter)…。

私たちSESエンジニアは、ただでさえマルチプロジェクトを抱えて忙しい中、「通知とタスクの洪水」に追われるように働いています。

ふと振り返ると、昭和・平成・令和と、働き方は大きく変わってきました。今回は、私自身の体験も交えながら、SESの仕事の移り変わりと情報過多社会の“きつさ”について考えてみたいと思います。

昭和時代:手作業と人力の時代

昭和の後半、まだITという言葉が一般的でなかった時代、エンジニアの情報源は「技術書」や「業務マニュアル」など紙の資料が中心でした。

ネット検索もなければ、Wi-Fiも当然存在しません。マシン性能は低く、環境構築だけで1週間かかることもありました。ネットワーク接続はLANケーブルを引いて物理接続、OSのインストールもCDドライブからひたすら読み込み。

業務中のやり取りは、電話と対面が中心。情報共有は「回覧板」のように書類が回ってくるスタイル。今のようなリアルタイムなやりとりとは程遠いものでした。

実体験で振り返る:昔のSES現場はこうだった

私が最初にSESとして現場に出たころ、議事録作成は新人の仕事と決まっていました。上司や関係者の会話を必死でメモし、午後はその清書。誤字や敬語を直して、上長のチェックをもらい、印刷・配布。これだけで一日が終わることもありました。

スケジュール管理はExcelがすべて。しかもGoogleスプレッドシートのような同時編集機能もない時代。リーダーが1人で進捗を確認し、色を変えて…スケジュール調整だけで丸1日というケースも。

マニュアルは紙、仕様書も紙。赤ペンで印をつけながら、「ここにバグがある」と言われた場所を探すのも手作業です。途中からWord文書になりましたが、最近ではNotionやSlackに置かれるようになりました。

特に印象的だったのが、炎上プロジェクトでの“障害票”管理。なんと紙で起票して手渡し。「あの票、誰か見た?」など、物理的に“行方不明”になるトラブルも。今では信じられませんが、当時はそれが日常でした。

平成後期:インターネットの普及と“ググる”文化

2000年代に入り、Google検索の普及により、「わからないことはまずググる」という文化が誕生しました。QiitaやStack Overflowなどの登場で、開発者同士の知識共有も活発に。

メールが標準化し、報告・連絡・相談はメールで行われるように。紙から電子へと、徐々に業務スタイルが変化していきました。

ただし、情報量はまだ「受け身」で済んでいました。調べるのも、自分が必要なときだけ。**今のように“四六時中通知が飛んでくる”ような疲労感はなかった**ように思います。

令和時代:AIとオンラインで加速する“倍速”社会

2020年代に入り、AIの登場によりSES業務はさらに高速化。GitHub CopilotやChatGPT、OpenAI Codexを活用すれば、コードの自動生成が当たり前になりました。

SlackやTeamsなどのチャットツールで常時オンライン。Zoom会議やGoogle Meetも毎日のように入り、タスク管理もJiraやBacklogなど複数のツールにまたがる状況です。

結果として、昭和の1週間分の仕事を1日でこなすような「超生産性社会」になってしまいました。確かに効率は上がっています。でもそのぶん、休む暇もなく、頭が疲れているのです。

情報過多社会の“きつさ”の正体

今の私たちが感じている“きつさ”の正体は、**処理しなければならない情報の多さ**にあります。次々と届く通知、複数のチャネルからくる指示、連携すべきツールの多さ…。

便利さの裏側で、**集中する時間が失われ、マルチタスクで脳が分断されている**のです。どこかで、昭和のように「一つのことにじっくり取り組む」時間が必要なのかもしれません。

まとめ:働き方を自分で“選ぶ”時代へ

昭和と令和を比べると、「どちらが良い・悪い」というよりも、それぞれの時代に良さと課題があったことが分かります。

大切なのは、技術やツールに振り回されるのではなく、「自分のペースを見つけること」。Slackの通知を切り、紙のノートに考えをまとめる。時には意図的に“昭和っぽい働き方”をしてみるのも良いかもしれません。

今は、働き方を自分で選べる時代です。情報とどう付き合うかを自分でデザインし、AIもアナログも活かしながら、ちょうどいいバランスを探っていきましょう。

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